市民社会とは何か




震災後、ネット上で「市民」という言葉がやな感じで使われる場面をちょいちょい見かけます。


今後この国の人が「市民」意識が持てるかどうかって、かなり重要だと思います。
その時期に、この嫌悪感はなんなんだか。


使われ方として、よそもの嫌いにも通じる気がします。
未来のない私なんぞにはどうでもいいっちゃいいけど、気になる。


前時代的な政治家などの口から出たものではなく、普通の人の、普通な気持ちから出てるみたいなところがまた、気になる。


どうも私の思う「市民」と、言葉の意味が違うのかな。と思ったり。


ヒトは言葉で理解する。言葉で誤解する。
「しあわせ」という言葉すら、ヒトは、人をなじるときにも使いますからね。


そんなこともあってこの頃は、「市民」という言葉を頭の隅に引っかけて暮らしてるわけです。
この本は「市民社会」 civil society がキーワード。
教養がないのですべての理解は無理ですが、言葉がどう翻訳され、どんな思想の形成に関わったかがわかりやすいと思います。


以下は、未だ読了していないこの本からの引用。というより覚え書き。(  )は補足。…は省略部分。とくにガルヴェ訳とシラー訳の違いの考察には注目。
いま目の前で1ミリだった誤差が、100メートル先では何ミリになっているか、みたいなことを考える。ベルクソンの進化の話なんかぼんやり思い出しつつ。

その「年越し派遣村」村長を務めた「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅誠は、2008年の著書の中で自分たちの立場をこう表現している。「「市民 citizen」という言葉もすっかり人気がなくなった。市民という言葉には、国の動向とは別に、社会の一員としての立場から社会的に必要と感じられることを自主的に行う人々、という意味合いが込められていたように思う。それは「国民」とも「会社員」とも「労働組合員」とも、「家族の一員」とも「地域の一員」とも違う、「社会」に対して責任を持とうとする存在のはずだった」。

経済同友会1997年発表の提言『こうして日本を変える──日本経済の仕組みを変える具体策』を例に引いて)日本の近代化の過程では「市民社会が十分に育っていなかった」ために、日本は「民主主義」ではなく「官主主義」だというのである。一見すると「民主主義」の徹底を求める文書のようだが、「構造企画推進の基本理念は民主主義と市場原理の尊重である」という冒頭の文章からも吹奏できるように、この提言が求めているのは政府による規制の緩和であり、「民主主義」の「民」とは、実際には民間企業のことである。
…(中略)…
  「市場原理の尊重」と「自己責任原則」に基づく「自由競争社会」、そしてその「健全な発展」のための「規制緩和をはじめとする構造改革」。それが「市民社会」とう言葉で語られているのである。このような経済界の要望が、その後、自由民主党政権(後に自公連立政権)の新自由主義的政策として具体化し、数次にわたる労働者派遣法の「改正」、ホームレス・母子家庭・障害者を対象とする「自立支援事業」や「自立支援法」などの形で実現したことは、改めて言うまでもないだろう。

ホッブスの)『市民論』は、人間の自然な平等が「相互恐怖」をもたらすことを、こう説明している。「相互恐怖の原因の一部は人間の本性上の平等性に、また一部は傷つけあおうとする互いの意志にある。この二つの原因により、私たちは、安全を他人から期待することも、自分自身で保障することもできなくなる。……お互いに対して同等のことをなしうる人々は平等である。しかるに最大のこと、すなわち殺すことができる人々は、同等のことをなしうる人々である。したがって番人は本性上互いに平等である。現存する不平等は国法 leges ciuilis によって導入されたものである」。

したがって、(シラー訳ではなく)ガルヴェ訳(スミスの)『国富論』を素直に読めば、「市民社会」とは分業に基づく商品交換社会であり、実質的には「商業的社会」である、と理解することになるだろう。ここから、アリストテレス以来の伝統的な用語法とは異なる「市民社会」という言葉の理解の仕方がドイツに普及していった可能性は大きいと考えられる。


以下メモつづき。
資本論』はただ読んだというだけで何も読み込んでいなかったことを知る。

マルクスの)1867年の『資本論』(文字通りには『資本というもの Des Kapital』)では、「市民社会」という言葉はほとんど使われていない。その代わりに現れるのは、「資本主義的生産様式 kapitalistische Produktionsweise が支配的に行われている社会」という定義的表現である。
(中略)
ここで「資本主義的」と訳したという形容詞は、英語のやフランス語のと同様に、「資本」という名詞にギリシア語からラテン語に入った形容詞語尾 (-ista)が付いたものであり、文字通りには「資本的」という意味であって、「資本家 Kapitalist」という名詞から派生した「資本家的」という形容詞ではない。

この「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」は、これ以後「資本主義社会 die kapitalistisch Gesellschaft」という短縮形で表現される。

国内の植民地支配
……
つまり、資本主義的生産様式とは、植民地支配を経験したヨーロッパ人が自国内部に持ちこんだ奴隷制の一形態なのである。初期のマルクスが「市民社会」と呼び、後には「資本主義社会」と言い換えた西欧の近代社会は、このような意味で植民地主義的な社会なのであった。